天空から 5 二つのオリンピック競技場界隈の変遷を見る(後編)

2019年 11月06日
 前回からの続きです。
国立代々木競技場界隈の変遷
代々木練兵場からワシントンハイツへ
 現在の代々木公園一帯は、江戸時代には武家屋敷群が連なる武家地。大山街道が近くにあるので江戸城防衛のために置かれたものといわれます。明治に入るとこの地は主にお茶畑・桑畑、草原と化しますが、ここに大日本帝国陸軍の練兵場が設けられます(明治42年=1909年)。代々木練兵場です。
 この地でライト兄弟(イギリス)の世界初飛行からわずか7年後に徳川好敏陸軍大尉が日本で初めての飛行機による飛行に成功しています(明治43年=1910年)。またこの地は1936年(昭和11年)に起きた2・26事件の首謀者が銃殺刑に処せられた場所としても有名です。終戦直後にはこの練兵場で国粋主義の団体(大東塾)の有志が天皇陛下に敗戦を詫びて割腹自決を行っています。
 多くの歴史が刻まれている代々木練兵場ですが、周辺住民の評判は戦前あまり芳しいものではありませんでした。軍事演習の頻度が高くなってきて草原だった土地が荒れ、土埃・砂塵が舞い、周辺住民の生活に悪影響を及ばしたからです。練兵場の移転要求の近隣住民集会も開かれています。
 この土地に大きな変化が起きるのは太平洋戦争終結後です。山の手大空襲によって焼け野原となったこの土地を占領軍(米軍)が接収して占領軍の軍用地としてしまったからです。そこには兵舎や軍人(将校)家族用の居住宿舎等が造られました。アメリカ初代大統領の名前をとってワシントンハイツと名付けられました。
昭和22年米軍撮影の航空写真。真ん中上の黒い部分が明治神宮。その下に広がる奇妙な形の住宅群がワシントンハイツ(代々木練兵場跡)。
 
ワシントンハイツ ~日本の中のアメリカ~
白根記念渋谷区郷土博物館・文学館より 代々木八幡神社の高台から撮った写真か?
東京異景散歩(辰巳出版)よりトリミング引用
 空襲で壊滅状態になったとなった東京の街に突然現れた827戸の西洋風住宅は周囲のバラックに住む窮乏した日本の庶民の目にどう映ったでしょうか。おそらく想像もつかない豊かな眩しい別世界、日本の中のアメリカという存在であったでしょう。そこには92万平方メートルという広大な土地に青い芝生が広がり、見たこともない高級車が数多くあり、楽し気な米国人家族の姿が見えたことでしょう。
 アメリカンハイツはGHQの指示により日本側の負担・工事でできたものということですが、アメリカは駐留地の存在感でアメリカ的価値を見せ、日本の国のあり方や進路の変更を示唆し、親米化を図ったものと思われます。そのことの是非は別として、アメリカの占領政策は成功し日本はアメリカ化の道を歩み戦後処理に邁進することになります。アメリカ文化から得たもの、占領統治により失った伝統文化や慣習、光と陰が交錯する中で。

ワシントンハイツの返還
 昭和27年(1952年)のサンフランシスコ講和条約の発効でGHQによる占領は終了し(日本独立)、連合軍は日本から撤退することになります。しかし講和条約6条但し書きで、日米二国間の協定で米軍の駐留が可能であることも定められます。これは旧安保条約といわれ、この条項を根拠に「無期限使用施設」というのが設けられ、「ワシントンハイツ」も日米の協定で無期限使用施設の指定を受けます。そのため1952年以降もワシントンハイツは存続します。
 さらに1960年(昭和35年)の日米安保条約の発効によって在日米軍の駐留が認められ、ワシントンハイツは在日米軍の軍用地として代々木の地に存在し続けます。
 転機となるのが東京オリンピックの決定(昭和34年=1959年)。日本側はワシントンハイツを1964年(昭和39年)の東京オリンピックの競技場や選手村に使用するため、代替地(調布飛行場付近)の提供と移転費用の全額負担という条件でワシントンハイツの日本側への返還を実現させます。
 上は昭和38年東京オリンピック前年の米軍撮影の航空写真。ワシントンハイツ中央道路より下が壊されていますが、ここが国立代々木競技場やNHK国際放送センターができるところ。中央道路より上はオリンピック選手村として整備・利用されるため壊されていません。開催まで日がないため突貫工事が行われたものと思われます。

ワシントンハイツの痕跡
 東京オリンピック後、代々木の選手村は現在オリンピック記念青少年センターとなっている一部を除いて取り壊されます。その後この地は整備され1967年(昭和42年)に森林公園の代々木公園となります。
 代々木公園の原宿方面の入口から入って少し歩くと右側に古くなった木造平屋建ての住宅が見えます。壁が白く、窓枠や柱がライトブルーの古い建物です。これはまぎれもなくなくワシントンハイツにあった建物です。
 近づいてみると案内板に「オリンピック記念宿舎と見本園」と書いてあります。代々木公園を造るときにオリンピックの記念として1軒だけ残したということでしょうが、案内板にワシントンハイツのことは全く書かれていません。
 東京オリンピック当時オランダ選手の宿舎であったことは分かりますが、この土地や建物に刻まれたワシントンハイツの歴史を概略的にでも書いた方が今後のためにもよいのではないでしょうか。

優美でダイナミックなデザインの代々木国立競技場
 世界遺産へという声も上がった国立代々木競技場サンケイニュース 2016.10.6
 ワシントンハイツ閉鎖後、選手村と同時に姿を現したのが世界を驚かせ、世界から絶賛された「つり屋根構造」の国立代々木競技場。設計は戦災復興事業に携わってきた建築家の丹下清三氏。ダイナミックな空間構成だけでなく、機能性にも優れた不朽の名作といわれます。
 上から見たら第一体育館(手前)は三日月を二つ背中合わせにしてずらせたような形、第二体育館(奥)は古生代の螺旋型の貝、アンモナイトにそっくりで、斜め上から見ると鶴のような面白さ。一般の人が抱くアリーナの概念をぶち破る感動の建築物です。こんな凄いものを壊して建て替えたらバチが当たります。竣工から56年を経る2020年のオリンピックでも再使用される所以です。

「鷲は舞い降りた」 ワシントンハイツの街デザインを推理する
 ワシントンハイツ街全体のデザインについての筆者の推理です。
 街全体のデザインについてGHQからの説明はありません。またこのことについて書かれた文献もほとんどありません。
 ワシントンハイツは代々木練兵場の土地の形に合わせて造られていますが、変化に富んだ実に奇妙な形です。建物の向きもバラバラで規則性が全くありません。合理主義の国のアメリカが何故このような奇妙な街をつくったのでしょうか。この街デザインにアメリカの意図やメッセージが何か隠されはいまいか。
 「ワシントンハイツ―GHQが東京に刻んだ戦後―秋尾沙戸子著」というGHQの戦後史が詳しく書かれた本に少し記述があります。
 それによるとこの街の設計は、東京丸の内のビルにあったGHQ技術部「デザインブランチ」で行われたようです。その設計に立ち会った一級建築士の網戸氏の記憶によると、街並みはデザインブランチの責任者の発案でなく、招かれたアメリカの空軍少佐が瓢箪(ひょうたん)型の道路を描いて、そこに1本の道を通したというのが建物配置の出発点といいます。
 空軍少佐というと飛行機の上から地上を俯瞰できる立場の人です。ナスカの地上絵のごとく高い視点からここにアメリカを象徴する何かを描いた可能性があります。瓢箪型というのは日本人建築士の印象でしかありません。
 そうするとアメリカを象徴するものは何かということになります。日本人にはあまり馴染みがないかもしれませんが、アメリカには国章があります。その図案は「ハクトウワシ」です。
 図はアメリカ合衆国の国章 Wikipediaより
  この国章は紙幣・貨幣の裏やアメリカのパスポートにも載っており、アメリカでは様々な場面でよく見かけます。
  冒頭のワシントンハイツの写真を、代々木八幡方面を上に原宿駅を下にしてみるとこのようになります。
 ワシントンハイツの中央通りから右側の部分は鷲の翼(ウイング)ではないでしょうか。アメリカの国章のデザインにもいくつかの種類がありますが、昔使った25セント硬貨(QUARTER DOLLAR)を見てみますと上の写真に近いデザインとなっています。

 ハクトウワシは着地のときには翼の先端部分を少し曲げます。ワシントンハイツの街デザインはアメリカが日本を占領するために日本の地に降り立ったこと表現しているのではないでしょうか。この土地が帝国アメリカの支配下に置かれたことを示す象徴的デザインというわけです。
 信じるか信じないかはあなた次第です。(笑)
The Eagle has landed
  なお、ワシントンハイツの中央通りから左側部分にもアメリカのある意図が表現されていると思っていますが、今回は割愛します。
(完)
 ブログに「天空から 5」というタイトルを付けましたが、「天空から~天空から4」は4年前の2015年6月から9月にかけて書いています。この俯瞰シリーズはもう少し続けてみようと思っています。
 
昭和22年、昭和38年の航空写真(モノクロ)は米軍撮影、国土地理院管理のもので、gooの地図サイトから引用しました。 
 産経ニュースの特集に東京オリンピック(1964年)時の興味深い写真がたくさん掲載されています。

   産経ニュース「戦後19年目のオリンピック(特集) ブログに使いたい素材が満載です。
 
「ワシントンハイツ―GHQが東京に刻んだ戦後―秋尾沙戸子著」を参照しました。
               

 

The House of the rising sun」は作者不詳のアメリカのフォークソング。暗い情念の漂う旋律で、ジョーン・バエズやボブ・ディラン等も歌ったが、アニマルズがロック風にアレンジしてリリース。世界的なヒットとなった。1964年の東京オリンピックの年である。「フォーク・ロック」と云われた。

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