天空から4 戦後の会場付近 再開発

上は戦後の昭和27年に撮影された占領軍(米軍)通信隊の広報目的の航空写真です。どこだか分かりますでしょうか。
会場近くの年輩の方に見せると、街の骨格は大きく変わっていないので道路と交差点の形状で分かった方が多かったようです。正解は下の文字入り写真。フォーラムミカサ エコ近辺の内神田一丁目、神田司町二丁目、神田美土代町の往時の写真です。
旧会場の三笠ビルや新会場のフォーラムミカサ エコの位置関係が分かるように細工してみました。赤い線で囲んだところは進駐軍の接収地です。接収地は柵で囲まれていて外から内部をよく見ることはできなかったようですが、クリスマスのシーズンには大きなツリーが飾られ、道行く人にも華やかな雰囲気が感じられたそうです。
戦争犯罪というべき非戦闘員を巻き込む無慈悲な東京大空襲の後、東京はほとんど焼け野原となり終戦を迎えました。廃墟と化した街は見通しが利き、会場近くの人の話によれば、会場そばの司町交差点から上野の杜が見え、山手線、中央線等の省線(しょうせん=国鉄)の電車が行き来する様子が分かったそうです。駿河台方面もよく見え、両国の花火も眺められたということです。
終戦後は、東京で生きのびた人の多くが焼けたトタンや木片でバラックを立て、厳しい環境の中から復興への営みを始めましたが、神田地区は航空写真のとおり比較的早く復興したようです。その理由は占領軍(進駐軍)の拠点が置かれたからです。進駐してきた外国人のいるところは物が豊かで、闇物資の売り買いが盛んに行われ、神田駅の東口から秋葉原方面にかけては大きな闇市も出来ています。
ポツダム宣言執行のために連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、丸の内の第一生命館に入り、周囲の丸の内・有楽町のオフィスがある重厚な建物群を接収しましたが、御茶ノ水や神田地区の主要な建物も占領後の拠点にするべく空襲の爆撃目標から外され接収されています。
御茶ノ水地区では、婦人軍属用の宿舎として、主婦の友社ビル、YWCAビル、佐藤新興生活館(現山の上ホテル)等が接収され、神田地区では一橋界隈の如水会館、学士会館が接収を受けました。会場のある内神田近辺では、写真のとおり美土代町にある本郷通り沿いのYMCAと島津ビル周辺が接収され、カマボコ型の進駐軍の兵舎が立ち並びました。
GHQは管理のため、東京の街路に自分たちの分かりやすい名称を付け、本郷通り(日比谷通り)をA Avenue、靖国通りをT Avenue等と呼んでいたようです。
1952年(昭和27年)4月28日のサンフランシスコ講和条約発効後、連合軍の占領は終わり、日本が主権をすることになりました。しかし1950年(昭和25年)6月に勃発した朝鮮戦争によって軍事施設の需要が高まったため、昭和30年代に入って遅れて接収が解除されたところもあるようです。
上の航空写真とグーグルアース等でみる現在の同じ場所を比較してみますと、ほとんどすべての建物が建替えられているのが分かります。現在は再開発により、当時から建物が2度建替えられたところも多いようです。
街は少しずつ変化しながら、長い年月を経ると大きく変わっていきます。小さい建物が整理・統合されて大きなビル群に変貌してきたのが現在の東京の都市空間です。

会場のある内神田地区は大手町に隣接しています。会場前の外堀通りを南下し日本橋川を渡ると大手町の超高層ビルが林立し、街並みが急に変わります。大手町・丸の内地区は日本を代表するビジネス街ですから神田地区とは変貌のスケールが違います。
最近、大手町地区(常盤橋街区)に、総事業費が1兆円を超える三菱地所の新たな都市再開発プロジェクトが発表され、話題を集めました。日本橋川を挟んで日銀の向かい側です。そこにできる一番高い建物(B棟)の高さが、なんと390メートル。丸の内、大手町の高いビルが200メートルくらいですから、その約2倍。東京タワーの333メートルを超え、東京スカイツリーの第一展望台と第二展望台の中間くらいの高さだそうです。
完成は12年後の平成39年(2027年)。東京はどのように変わっているでしょうか。

※モノクロ写真は地図物語「あの日の神田・神保町」株式会社ぶよう堂から、高層ビルの入った写真は「常盤橋街区再開発プロジェクト」計画概要(三菱地所㈱)から転載しました。文字入れ等加工しました。